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連載『地球人であって日本語人である私』
メールマガジン『地球はとっても丸い』は創刊百号目を迎えました。
読者の皆様への御礼を込めまして、私たちの合言葉、
「地球人であって日本語人であること」を贈ります


文・吉村峰子(ダーバン・南アフリカ共和国)


 皆さん、その後、元気にしていますか。

しばらくご無沙汰していますが、私は皆さんから投げかけられた質問を、折りに触れ思いだしています。

私に投げかけられた質問。あの時も一生懸命答えたつもりだけれど、私は皆さんよりもかなり年上のくせに、過分に感情的になっていたかもしれません。もっと、もっと、丁寧にどうしてその質問が出てきたかということを考えながら答えるべきでした。

 皆さんからの質問、それは、どうして、私が日本を出て、アフリカに住まなくてはいけなくなったのか、というものでした。

 あの時は、この質問の裏にある、「日本が世界で一番いいところなのに、何を好き好んでアフリカへ」といった、皆さんの日本への盲目的な信頼とアフリカをあまり知らない人にアフリカを低く思われたような居心地の悪さを覚えたのでした。

 私は、日本をもちろん、故郷として大切に思う気持ちはしっかりとありますが、私が日本を出たのは、日本で18歳まで育ち、米国、欧州で教育を受け、アフリカで家族を持ち始めた私が、すべてを考慮した上での、積極的な選択だったのです。

 私は、幼いころから、“人と同じこと”をすることをあまり重要視していなかったようです。また、友達と同じ本を読んでも、同じ食べ物を食べても、どこか、皆と違う感想を持っているようなところがありました。

 そして、「人と同じようなレールに乗って、自分の人生を送りたくない」と思う私が大学進学を前にして選択したのは、米国への留学でした。これは、今から30年も前のこと。だから、まだ留学自体が珍しい時代でした。
 
 米国の大学、大学院に学んだ後、日本で私を待っていたのは、アフリカに心を惹かれてやまない男性の出会いでした。その男性との結婚後、私たちは21年に渡る、アフリカ各国と日本を交互に暮らす生活を経て、3年前に子ども2人を連れて南アフリカに移住する道を選びました。

 私の考え方は、私が20代の後半から出会ったアフリカに大きく影響されています。若いころに体験した米国や欧州の暮らし、考え方には、それこそ、表面的な違いへの驚きはたくさんあったけれど、昭和30年代生まれの私が日本で培ってきた生活習慣などと比べて、私の価値観を揺るがすような大きな違いはありませんでした。

ところが、私がこれまで住んだアフリカのいろいろな街には、自分の想像をはるかに上回る世の中の不条理が渦巻いていました。

 リベリアでは、長年かけて築き上げた人生が、“戦争”という暴力で一切合財破壊されてしまう現実を見ました。エチオピアでは、究極の貧困による栄養失調で、枯れ木のような四肢を持つ子どもたちがいました。マラウィでは、エイズに罹っていた母親が出産時に死亡し、そこに取り残されて見捨てられた生後14日の赤ちゃんが私の腕の中で死んでいきました。

 どうして、こんな、ひどいことがいまだに世の中に起きているのか。私は人の命は平等であるべきだと信じています。それなのに、どうして、自分たちには直接責任のないことで、これだけの苦しみを背負う人がいるのだろう、と悩みました。そして、この人たちに対して何もできない自分が情けなくて涙を流したとき、どれだけ多くの心優しいアフリカ人が、「シスター(姉妹よ)、泣かないで」と私の頬をなで、慰めてくれたことでしょう。

 このような現実のなかで、自分が日本人である、という現実をどう考えればいいのか。日本に生まれたことで私が受けた恩恵は計り知れません。日本語で考え、文章を書くことができる幸せも含め、日本に生まれた偶然に心から感謝しています。

 でも、たまたま、生まれついたのが日本であった、という偶然が、私にこれほどの恩恵を与え、たまたま生まれついたのが戦禍のリベリアであった、という偶然が、少年兵として自分のバランスを失うほどの大きな機関銃をその細い肩から下げる人生を送らせる。

 これが、ただ偶然がもたらすことだとしたら、こんな不公平なことはないですよね。

 1970年代後半の米国のリベラルな大学教育を受けた私は、「現状に不満があったら、それを是正する努力をする」という極めて健全な考え方を、素直に実践したいと思っています。

 そうすると、アフリカのこれらの不条理を、見て見ぬ振りはもうできなかったのです。安全な日本。飢える人のいない日本。そして、私の好きな秋刀魚の開きがいつも食べられる日本。でも、それらの恩恵を享受する喜びを上回る、「日本を出てアフリカで生きて行こう」とする私の決意が生まれました。どうしてでしょうね。アフリカを知ってしまった日本人として、私にもできることがたくさんある、と思ってしまったのです。たとえ、それがどんなに小さなことでもね。

 そう、私がいつも考えているのは、現状を変化させようと思ったら、自分ができることを見極めてそれを実行する。その選択を地道に全うする。そして、その自分の居場所に愛情を注ぐ、ということです。

 そして、そんな私の思いを実現するため、いま、一番、私が住みやすい場所がここダーバン、南アフリカなのです。

「どうして日本を出たのか」、皆さんの質問に少しは答えることができたでしょうか。

 最後に、先週、私と夫は、私たちの最愛の子どもたちの南アフリカの国籍を南ア政府に申請したことも報告しておきますね。私たちが“日本語人”であることは、これからも変わりません。でも、私は、日本で生まれてアフリカに住む“地球人”でありたいと思っています。

《吉村峰子(よしむらみねこ)/プロフィール》
語学教育に関わって早30年。2003年に家族で南アフリカに移住。現在は、エイズ症状緩和措置病院での患者さんの人生を書き取る仕事のほか、日本の自動車産業に従事する南アフリカ人たちに日本語を教えている。さまざまな人種のエンジニアたちに、ひらがな、かたかな、漢字、ローマ字の入り混じる日本語を教える運命の不思議さに感嘆する毎日。




地球はとっても丸い:第101号